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西陣美術織とは

絹糸と金銀糸を点で配置することで、複雑な色表現や繊細な柄表現ができる。帯地の生産で培った独自の技術で、写真のような繊細な織物表現が可能になり、美術作品を織りで再現することのできる美術織は、西陣織を超えた新しい織物ともいえる。

 

印象派の画家たちは、キャンバスに絵の具を点で置くことにより、絵の具が混ざって濁ることなく、視覚上の明るい色調の表現ができることを発見した。

それを織物に応用し、経糸を隠して緯糸のみを見せることで、一点ごとに色糸が違う色で並んで見え、リアルで微妙な表現が織物でも可能に。

研鑽を重ねクオリティを追求した結果が、美術品を再現する発見につながり、工芸としてのハイクオリティを維持できるまでになった。

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西陣織の歴史と今

西陣織の源流は、5、6世紀頃、大陸からの渡来人である秦氏の一族が今の京都・太秦あたりに住みついて、養蚕と絹織物の技術を伝えたのです。
やがて平安京への遷都が行われると、朝廷では絹織物技術を受け継ぐ工人(たくみ)たちを織部司(おりべのつかさ)という役所のもとに組織して、綾・錦などの高級織物を生産させました。
織物の工人たちは現在の京都市上京区上長者町あたりに集まって、織部町といわれる町をかたちづくっていたといわれます。

平安時代も中期以降になると、こうした官営の織物工房は徐々に衰え、工人たちが自分たちの仕事として織物業を営むようになったのです。
彼らはやはり織部町の近くの大舎人(おおとねり)町に集まり住み、鎌倉時代には「大舎人の綾」とか「大宮の絹」などと呼ばれ珍重された織物を生産していました。
また、大陸から伝えられる新しい技術も取り入れ、つねにすぐれた織物づくりに取り組みました。

室町時代には、大舎人座(おおとねりざ)という同業組合のようなものを組織し、朝廷の内蔵寮(うちのくらのつかさ)からの需要に応えながら、一般の公家や武家などの注文にも応じていました。

ところが、室町時代の中頃、京都の街を舞台に応仁の乱が起こります。乱は11年間も続いたため、多くの職工たちが戦火を逃れて和泉の堺などに移り住み、大舎人町の織物業は壊滅状態となりました。

戦乱が治まると彼らは再び京都に戻り、もとの場所にほど近い白雲村(現在の上京区新町今出川上ル付近)や、戦乱時に西軍の本陣であった大宮今出川付近で織物業を再開しました。

西陣織という名前は、西軍の本陣跡、つまり西陣という地名がその由来です。

大宮あたりの織物業者たちは大舎人座を復活させ、室町時代の末ごろには、この大舎人座が伝統ある京都の絹織物業を代表するものと認められるようになりました。
また、大陸伝来の高機(たかはた)という技術を取り入れ、先に染めた糸を使って色柄や模様を織り出す紋織(もんおり)が可能になったのもこの頃です。
こうして紋織による高級絹織物・西陣織の基礎が築かれ、その産地としての西陣が確立されたのです。
西陣織とその産地・西陣は朝廷からも認められ、豊臣秀吉などによる保護を受ける一方、その後も自ら中国・明の技術を取り入れるなどしてすぐれた織物を生み出し、いっそう発展を続けました。

江戸時代になり、世の中が安定して町人文化が台頭してくると、高級織物の産地である西陣はさらに繁栄し大きな糸問屋や織屋が立ちならぶ織屋街が形成され、高級織物はもとより、ちりめんや縞に至るまで織り出し、その勢いは他を圧倒していました。

江戸時代も半ばを過ぎると度重なる飢饉で世の中が不安定となり、幕府による奢侈(しゃし)禁止令もあって需要が減少した。

また、二度の大火にもあい、丹後や桐生など新しい絹織物産地が生まれたことも痛手となりました。

明治になって首都が東京に移されたことも、京都の街全体の勢いを失わせました。

しかし、昔から、海外の先進技術の導入に積極的であった西陣では、文明開化のチャンスにいち早く呼応し、人材をフランスなどに 派遣し、ジャカード織物などの技 術を取り入れて、近代化に成功したのです。
大正や昭和にいたって、高級絹織物の大衆化を進めると同時に、伝統的な手織技術の高度化や図案・デザインの洗練にも努め、高級織物業の地位を確かなものとしたのです。
現在では、伝統的な帯地やきものに限らず、ネクタイやショール、和装小物などの材料用としても格調高いすぐれた製品を生産。
壁掛けなどいわゆるインテリア用途の製品が、帯地に次ぐ生産額を占めるほどになっているほか、斬新な感覚の洋風着物などの普及にも取り組んでいます。

織元 とみや織物

とみや織物株式会社は、明治初年頃に冨家伊兵衛により西陣の織物商として創業しました。後に自らの手で帯地づくりを始め、織元に転業しています。太平洋戦争で一時休機(きゅうばた)しましたが、戦後すぐに「冨家機業店(とみいえきぎょうてん)」という屋号で事業を再開、昭和31年1月に「とみや織物株式会社」を設立しました。

内閣総理大臣賞,黄綬褒章、オスカー認定受賞等多数の受賞歴があり西陣織織元の中でも群を抜く技術力を誇りとしています。

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